ラッチェンスの水辺のマナーハウスープランプトン・プレース

5人を面白いと思った切っ掛けはスターリングが最初、建築に入ってすぐの頃建築雑誌でレスターを見て。次はマッキントッシュ、磯崎さんの都市住宅のグラスゴー美術学校の写真。ソーンは、川上さんとリンカーンズ・イン・フィールドで昼を食べ、ジョン・ソーン・ミュージアムを初めて案内されて。ホークスムーアは巴君とロンドンの5つの教会を二人で廻り、そして渡部君とスコットランドへ行く途中キャッスル・ハワードのモーソリウムを見て。

ラッチェンスは一番あとで1979年発行の雑誌ADのモノグラフ6Edwin Lutyensを見て。魅力的な写真と、”ラッチェンスの住宅”というピーター・インスキップの紹介文でラッチェンスの住宅の魅力にすっかり取り憑かれてしまい、ロンドンに行くたびに訪ねている。

ラッチェンスの魅力的な住宅は20代、30代の若い頃に集中しているが、

このプランプトン・プレースはインドの総督邸(現大統領官邸)の仕事が終りに近づいた、人生後半の60歳前後の頃のもので、力が抜け、リラックスした余裕のある設計姿勢が感じられる。

水辺のマナーハウス(領主の館)の増改築である。

一番の魅力的な外観は、水辺に建つ、少々近代建築寄りの両コーナーが格子状木造のガラス窓の建物で、湖に突き出たマナーハウス(領主の館)にラッチェンスが付け加えた、ミュージック・ルームと名付けられた増築部である。

湖を含む広大な敷地に建つマナーハウスを、ラッチェンスの生涯の支援者であり友人でもあったエドワード・ハドソンは、1928年購入し、その増改築と敷地全体の構成をラッチェンスに依頼した。

ラッチェンスは敷地入り口からマナーハウスに向かう軸線のパスを設定し、入口に左右対称に2戸のL字のゲストハウスを、コの字型に設け、その中心に通路を取り、マナーハウスへ向かう軸線の始まり、エントランス・ゲートとした。

門を入ると少し下がったところにゲストハウスのコーナーが見え、ラッチェンス得意の大きめの煙突が自己主張していて、自然とエントランスに引き寄せられる。

ゲストハウスの庇のラインを低く抑え、窓が庇を突き抜け屋根の部分に達し、リビングとキッチンの暖炉のための煙突が高くそびえる。などラッチェンス独特の味付けがされた、ヴァナキュラーな(地域特有の)表情の立面。

左右のヴァナキュラーなデザインとは対照的に、マナーハウスへ向かうパスへのエントランスとしての通り抜けの開口部は、古典主義建築のモチーフでデザインされ、上部にペディメント(破風)をいただく。2戸のゲストハウスの中央で、建物全体がゲートの役割を担っている。

通り抜けのエントランスの反対側には突然、イタリアの建築家アンドレア・パラディオ(1508-80)の有名なモチーフ、パラディオ窓、パラディアン・モチーフが採用され、導入部が強調される。

パラディオアン・モチーフをエントランスを抜けたパス上から見返す。在来のヴァナキュラーな外観の真ん中に突然ローマが現れる。でも違和感がない、むしろしっくりくる。こんなデザイン、ラッチェンス以外にはできない。

ルネッサンス後期の建築家パラディオの建築や著作に由来するスタイルはパラディアニズム、パラディオ主義と呼ばれ、18世紀以降のイギリス建築の大きなひとつの流れになった。

イタリアのヴィチェンツァにあるバシリカ(1549‐1614)の改装で、パラディオが編み出した、アーチ架構の両側に異なる柱間寸法を調整できるように開口を配したデザインがパラディオ窓とかパラディアン・モチーフと呼ばれ、イギリスの建築家に多用された。

コの字のゲストハウスの中庭は軸線上のみ開いた生垣で閉じられ、マナーハウスのある島に渡る橋が架けられている。

二つのアーチ開口の中央のレンガ積みの壁の上部から木造のブラケットが両端に伸ばされ、橋の床面を支える。パスのレベルから水辺に下りる階段もデザインされている。

既存のマナーハウスに接続した増築部。増築部から水辺に下りる階段。

プランプトン・プレースが建てられたのはコルビュジエのサヴォア邸が建てられたのとほぼ同じ頃。ラッチェンスもコルビュジェのことを知らなかった訳がないと思うけど、多分自分とは違う道を歩いてる人だと思ってたでしょうね。


サヴォア邸の持ち主もサヴォア邸には住まなかったようだが、ハドソンもこの建物本体には住まず、いつも敷地の遠い端のほうにある粉挽き小屋をラッチェンスに改装してもらって、そこに住んでいたという。

レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジがプランプトン・プレースに一時住んでいたが、その後売りに出し、やはりラッチェンス設計のディーナリ-・ガーデンズに移ったとされる。


エドウィン・ラッチェンスEdwin  Lutyens(1869-1944)

 1888年19歳で独立、20代~30代で育ったサリー州に固有な住宅要素に根差しながら、ウィットに富んだ平面、立面を持つ住宅作品を数多く作った。独立当初に出会い、生涯のメンターかつ支援者でもあった26歳年長の造園家ガートルード・ジーキル(1843-1932)が彼女の死まで庭のデザインで協働した。クリストファー・レン(1632-1723)やノーマン・ショー(1831-1912)を尊敬し影響を受け、30代半ばからは独特の住宅に古典主義建築の要素が付加された。その後住宅以外の仕事が増え、40代~60代には英領だったインドの総督邸という大きな建築が仕事の中心になった。1944年75歳、癌で亡くなる。