バンク駅のスターリング、ラッチェンス、ソーン、ホークスムーア

英国滞在1日目。イギリスの建築家の中で、とびぬけて重要だと僕が考える歴史上の5人の内、マッキントッシュを除く4人の建築が現存している場所、地下鉄のバンク駅の地上の交差点に向かう。


まず、目立っているのが、ジェームス・スターリングのNo 1ポウルトリー。スターリングは1992年66歳で医療事故で亡くなった。この建築は最後の作品で、死の5年後に完成。形態の遊びが過ぎて、最良の作品とはいいがたいが。

道路を挟んだ向かいにエドウィン・ラッチェンスの現ホテル・ネッド(旧ミッドランド銀行)、初期の宝石のような住宅作品群の後、仕事が大きな建築に移ったころの建築。


ジェームズ・スターリングJames Stirling(1926-1992)

 1955年31歳でジェームズ・ガゥワンと一緒に独立。レスター大学工学部棟がルイス・カーン(1901-74)のリチャーズ・メディカル研究所と共に近代建築が

新しいフェーズに入ったとして世界的に評価される。1964年パートナーシップを解消後、ケンブリッジ大学歴史学部図書館、オックスフォード大学フローリービルディング、その他国内に次々と話題作を作った。1976年以降しばらく実作がなかったが、コンペで得たドイツのシュトゥットガッルト美術館新館で復活し1983年に発表、不本意ながら当時の波ポストモダンに括られる。以降国外の仕事が増え国際的に活躍するが、1992年65歳の時医療過誤で亡くなる。



ホテル・ネッドの対角線向かいに見えるのが、ニコラス・ホークスムーアのセント・メリー・ウールノス教会。英国のバロックは1700年をまたぐ前後40年ほどしか続かなかった。そのイングリッシュ・バロックの時代の特徴を示す建築で、ホークスムーアのローマ建築への偏愛ぶりが強烈に表れていて、彼にしかできない面白いファサードだ。


ニコラス・ホークスムーアNicholas Hawksmoor(1661-1736)

1679年18歳で、クリストファー・レン(1632-1723)の書記となりセント・ポール大聖堂等、レンの死まで彼を助け協働した。また1690年以降は建築の経験のないジョン・ヴァンブラの助手として彼を助けキャッスル・ハワード、ブレニム・パレスの建築で協働した。ひとりの仕事としては、パラディオ窓を参照、巨大にしたクライスト・チャーチ等のロンドンの6つの教会、そして1729年68歳でキャッスル・ハワードの庭にブラマンテのテンピエットを参照、詩的なモーソリウム(霊廟)を建てた。ローマへの憧憬から、古典主義建築の原点を逍遥しつつ、常に建築に独特の力動感、量感を作り出した。1736年75歳で亡くなる。

 



そしてこの周辺で一番大きなジョン・ソーンのバンク・オブ・イングランド。改築を重ねて外観は変わっているなかで、チヴォリのヴェスタの神殿をモチーフにしたこのチヴォリ・コーナーはソーンのオリジナル。チヴォリ・コーナーのすぐ背面には1936年に通り抜け通路が作られた。これはこれで面白い。


現在バンク・オブ・イングランド・ミュージアムとして修復、公開されているバンクの内部空間。フランスのルドゥ、ブーレ―にも通じる、近代建築を予感させる装飾の少ない、ソーンのネオ・クラシシズム空間。インターナショナルともいえるネオ・クラシシズムは、英国の建築はこのあと19世紀のナショナルなゴシックへの揺り戻しを経てモダニズムへとつながっていく。


ジョン・ソーンJohn Soane(1753-1837)

1788年15歳からジョージ・ダンス等の下で学んだ後、25歳で2年余りイタリアに留学。28歳で生涯の友となるジョージ・ダンス2世を手伝い、自身も事務所をスタート。ソーンの様々なスタイルの多くはダンス2世の影響で生まれた。37歳の時、妻の伯父の死で莫大な遺産を受継ぎリンカーンズ・イン・フィールズ№12を購入自邸とし、のち№13を買い足し生涯改装を加え、サー・ジョン・ソーン美術館の元となる。イングランド銀行、ダリッチ・アート・ギャラリー等多くの公共建築でドーム・アンド・ランタン、隠された光源からの光、古典文法からの逸脱などを特徴とする独特の空間を作る。1837年84歳で亡くなる。