英国滞在4日目。
前回(2019年)、前々回(2014年)のロンドン滞在で行ってなかったところ、ホランド・パークへ。バスを降りて北の入口から入り、カフェで軽くランチしてから、公園を通り抜け、南側の住宅街を行く。ほどなくウィリアム・バージェスの自邸、タワー・ハウス1876‐81の特徴ある外観が現れる。
バージェスのタワー・ハウスは個人所有(鈴木博之氏の著書には俳優のリチャード・ハリスの住まいになっていて、誰にも見せないという話だった、とあったが、ネットで見ると、その後レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジがデイヴィッド・ボウイを抑えて競り落として、彼の所有になっている。)なので残念ながら内部は見られないが、「アラジンの魔法の宮殿」と評されたことからも、バージェスが生涯かけて細部まで創意を込めて華麗な装飾で埋め尽くした空間なのだろう。
ウィリアム・バージェス(1827-81)は本格的な建築教育を最初に日本にもたらしたジョサイア・コンドルの師で、コンドルの最初の生徒の辰野金吾も留学時(1880-1883)にバージェスの事務所に在籍していた。バージェスは1881年4月20日にここで亡くなっている。辰野金吾もこの通りを歩き、タワー・ハウスにも招かれただろうか。
赤レンガと白い石材を組み合わせた外観と、濃厚多彩な色彩で室内を工芸的に濃密に装飾したヴィクトリアン・ゴシックと呼ばれる、見る人によっては悪趣味ともとられかねないヴィクトリア朝期(1837-1901)にイギリスで流行した潮流である。
滞在2日目にリトル・ヴェニスで見た教会、また王立裁判所を設計したジョージ・エドマンド・ストリート(1824-81)とはほぼ同時期の人だ。
同じ通りの向かい側にはリチャード・ノーマン・ショウ(1831-1912)が設計したマーカス・ストーンという画家のためのスタジオ・ハウス1875‐6がある。建設時期はタワー・ハウスとほぼ同じ時期だ。
ショウは、17,8世紀のマナーハウスや民家の持つイギリスの伝統的建築要素に、新しい要素を加え、魅力的な住宅を再創造し、ラッチェンスにも大きな影響を与えた重要な建築家だ。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーヴメント(美術工芸運動)の思想に基づいた住宅の改革とされる。こうしたショウ、ヴォイジー、ラッチェンスらの住宅の潮流は、ドメスティック・リバイバル(住宅再興運動)と呼ばれている。
ショウのスタジオ・ハウスとバージェスのタワー・ハウス。片やドメスティック・リバイバル、片やヴィクトリアン・ゴシック、と言われる全く違う潮流を体現している。しかもバージェスとショウはほぼ同世代だ。
この界隈は1870頃以降、芸術家たちが移り住んできて、19世紀終わりには9人のアーティストのスタジオハウスが建ち、アーティスト・コミュニティができていた。今残っているのは上の2軒ともう一軒、画家レイトン卿の自宅、スタジオで、レイトン・ハウス・ミュージアムとして公開されている。
英国滞在1日目にピカディリーのバーリントン・ハウスのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの前を通りかかり、中に入ったらこの絵が展示してあった。フレイミング・ジューン(燃え上がる6月あるいは燃えるようなジューンー1895)。作者のフレデリック・レイトン(1830-1896)はラファエル前派とも交流のあった画家、彫刻家で、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会長を務めた。自邸ミュージアムのレイトン・ハウスにはフレイミング・ジューンの素描の制作過程のが展示してあり、綿密な推敲を重ねてこの絵は出来上がっていることが分かった。
唯美主義の象徴のようなクジャクの剝製のある玄関ホール。
レイトン・ハウスの建築家はジョージ・エイチソンという。1877年に追加されたアラブ・ホールはシチリア島パレルモにあるラ・ツィーザという12世紀にノルマン人が建てたアラブ風の宮殿をエイチソンが模した部屋で、中心に噴水が置かれている。壁にはレイトンが収集したサラセン・タイルが使われている。モリス商会にタイルを提供し有名となった陶芸家、ウィリアム・ド・モーガンがタイルをデザインした。
バージェスのタワー・ハウスの内部空間は見られなかったが、レイトン・ハウスの密度の濃い装飾で満たされた内部空間からもしかしたら何となく想像できる気がした。この時代の絵画の世界の空気はレイトンやロゼッティを中心とした「美のための美」を求める唯美主義運動イースセティック・ムーブメントの真只中にあり、ヴィクトリアン・ゴシックの建築のバージェスもまたその空気の中にいた。